[ しあわせの待つ明日 ]

[ サクラ大戦 ] 太正櫻に浪漫の嵐。
風邪ひき、39.2度。

「39.2度...」
 マリアは体温計を見つめてため息をついた。
「はぁ...」
 昨日から様子が変だとは感じてはいたのだが...。まさか子供ではないのだから、ここまでの高熱は予想していなかった。

 朝、マリアが大神の部屋の前を通りかかった時、中で何かが倒れる音が聞こえた。
「隊長?」
 不審に思って呼び掛けても返事がない。扉の鍵は...開いている。
「...失礼します」
 部屋に入ったマリアの視界に、床に倒れた大神の姿が飛び込んできた。
「隊長!」
 抱え上げた大神はぐったりしていて、マリアの声にピクリとも反応しない。マリアはその大神の様子に慌て、彼をゆさぶった。
「隊長! しっかりしてください!」
「どうしたんだ? マリア!」
 開け放してあるドアから聞こえたマリアの声に、カンナが駆け付けてきた。
「カンナ!」
 頼れる親友をマリアは少し泣きそうな顔で見上げる。
「ちょっと、待ってな!」
 マリアの腕の中でぐったりしている大神に気付いたカンナは、身を翻して駆け出した......

 それが今朝の事だ。大神は今、ベッドの上で唸っている。呼吸も荒い。
「う、うぅ...」
 マリアはその額から温くなってしまったタオルを取り上げ、氷水に浸す。
「マリア。隊長はどうだい?」
「カンナ」
 カンナは粥を持って入ってきた。
「...こりゃ駄目だな。せっかく作ってきたのに」
「他の皆は?」
「舞台の準備さ」
「...よくすみれや織姫が言う事を聞いたわね」
 大神が倒れたと聞いた時の騒ぎ様を思い出して、マリアは少し驚いた。
「支配人の一言が効いたね。『大神の奴が熱で倒れたって舞台を中止しちまったら、あいつが起きた時に何て言うと思ってんだ?』って」
「なるほどね。さすが米田支配人という所かしら」
「まぁな。で、公演日に熱を出しちまった事を隊長に後悔させるぐらいに良い舞台にしてやるって」
「そう...」
「今回の舞台はマリアの出番は無いから、ここで隊長に付いてやっててくれよ。マリアなら皆、安心して任せられるからさ。じゃ、これは厨房に置いとくから」
 カンナは土鍋を持ったまま部屋を出ていった。
「.........」
「隊長?」
 マリアは大神が何か言っているのに気付き、彼の近くに寄る。
「......リア、マリア」
 大神は何度も彼女の名を呼んでいた。
「マリア...」
「ここにいます」
 マリアはうなされている大神の手を軽く握った。
「ずっと、ここにいますから...」
 その声に安心するように、大神は彼女の手を握り返してきた。そして、やっと穏やかな表情で寝息をたて始めたのだった。

 昼過ぎには大神の熱も少しずつ下がってきた。
「う...ぁ......」
 マリアが冷たいタオルで額や首筋を拭いていると、大神がうっすらと目を開いた。が、まだ意識が朦朧としているようで焦点がはっきりしていない。
「大神さん...」
 呼び掛けに反応し、緩慢な動きでさ迷った視線がやがてマリアの上で結ばれた。
「...マリア? 俺は...」
 やっと自分の状況に気付いた大神は、慌てて起き上がろうとしてマリアに制される。
「駄目ですよ、寝ていなくては。まだ熱があるんですから」
「熱?」
 ぼんやりとだが、思い出してきた。
「もしかして...倒れたの? 俺」
「昨日から調子が悪いのに、無理をするからです」
「あ、いや、それは...」
 形勢不利とみて大神は布団に潜り込んだ。
「他の皆も心配しています。ちゃんと治るまで大人しくしていてください」
「...はい」
 その返事にマリアは微笑んで、大神の額に手を当てる。
「大分下がってきましたね。何か食べられますか?」
「...あんまり食欲無い」
「それはわかりますが、何か入れておいた方がいいですから」
 マリアに再度勧められて、果物ぐらいならと承諾した。マリアは林檎を持ってくると、それを手際良く切り分け始めた。
「どうぞ」
 剥き終わった林檎に爪楊枝を刺し、大神に差し出す。
「いただきます」
 林檎はウサギさんの形だった。それが何だか可愛くて、大神は笑顔を見せた。
「ほひしひ」
「お行儀が悪いですよ、隊長。口に物を入れたままで話さないでください」
「...はい」
 大神はシャクシャクと少しずつだが食べている。林檎だけとはいえ、食べられる程まで回復した事に、マリアはほっと一息つく。
「ご馳走様でした」
「では、薬を飲んでから休んでいて下さいね」
 大神はその言い付けに従って、大人しく横になった。
「では、私は少し下へ降りてきますので」
「あ、あの...」
「はい?」
 扉の前でマリアは振り返った。
「...心配かけて、ごめん」
「...いえ」
 大神に微笑むと、マリアは部屋を出た。

 マリアはかえでに報告した後、舞台に向かった。すると、皆心配していたのだろう。すぐに全員が駆け寄ってきた。
「マリア、お兄ちゃんは?」
「もう大丈夫よ。熱も下がってきたから」
 その言葉に、全員の顔に安堵の表情が広がった。
「ただ体力が落ちているから、もう少し休んでもらおうと思っているけど」
 マリアの処置に反対する者は誰もいなかった。
「それがええやろ。大神はん、この頃やたら忙しそうに働いとったから」
「少尉さん。無理するの、とても得意でーす」
 最近の大神が睡眠時間を削って働いていた事を皆、知っていたのだ。

 しばらくしてマリアが大神の部屋に戻ると、大神はマリアがノックした事にも気付かずに机の前で何かゴソゴソとやっていた。
「隊長。何をなさっているのですか?」
「え? マ、マリア...。早かったね」
 声をかけられて、大神は書類を片手に固まってしまった。
「早かったね、ではありません。大人しく横になっていてくださいと申し上げたはずですが?」
「う...」
 怒った時のマリアはとても怖い。この事を大神は再確認した。
「あ、その、ね。仕事がまだ残っていたのを思い出して、それで、その...」
「仕事熱心なのは、非常に結構です。が、身体を壊しては本末転倒というものです。今は一日も早くの風邪を治すのが最優先です」
 マリアは厳しい目のまま、ビッとベッドを指し示した。
「いや、これは期日が迫ってて...」
 それでも一応の抵抗を試みる大神だったが、もう一度キッと睨まれて負けを認めた。
「書類を持ち込まないでください」
「...はい」
 ベッドに持ち込もうとしていたのも見つかってしまう。
「これは私が何とかしておきますから」
 大神をゆっくり休ませようと言ったマリアだったが。
「そこまで迷惑をかけられないよ」
 大神の方は慌てて、彼女から書類を取り返そうとする。
「駄目です! 隊長は休んでいてください」
「でも、俺が受けた仕事だし...」
 二人の間で書類が行き来する。体力が落ちていて腕に力が入らない大神と、病人である大神を相手に手加減をするマリア。
 何度目かの応酬の後、思いがけない力に引っ張られてバランスを崩したマリアは、大神に向かって倒れ込んだ。
「あらあら、二人とも仲がいいわね」
「かえでさん!」
 書類を取り合っていた二人は驚き、扉の前のかえでを見つめた。
「お邪魔だったかしら」
 かえでのその言葉に、大神は自分がマリアに抱き付いているという状況に気付いた。顔を真っ赤にして慌てて彼女から離れる。
「い、いえ。そんな事は...」
「そう? 書類を取りに来たのだけど」
「え...っと。それは、まだ...」
 大神の見つめる先はマリアの手の中。
「いいのよ。これは私がやっておくから」
 かえではマリアから書類を受け取る。
「という事で、しばらくはゆっくり休んでね。支配人にも言ってあるから、ちゃんと治すのよ」
「はい」
「良い返事ね、大神君。じゃ、マリア。大神君の事よろしく頼むわね」
「はい」
「よろしい」
 笑って頷き、かえでは早くよくなってねと言って部屋を出ていった。
「これで身体を治す事に専念してくださいますね」
「了解しました」
 大神は微笑んで、今度こそ大人しく布団に潜り込んだ。
「マリアは心配しすぎだよ」
「隊長の事を皆に任されていますから」
 マリアはタオルを絞って大神の額に当てる。
「気持ちいい」
 その冷たい感触に大神はふうっと息をついた。気持ち良くて思わず目を閉じる。なんだかんだ言っても、熱が大神の身体から体力を根こそぎ奪っていたのだ。
「まったく。どうしてこんなになるまで無理をするんですか」
「別に無理なんてしてない...つもりだったんだけど」
 熱を出して寝込んでいる身では威張れない事に気付いて、大神はマリアの視線から逃げるように布団に潜り込んだ。
「そのまま寝てて下さい」
 マリアは布団の上から軽く大神を抱きしめた。

 夕方になって大神は目を覚ました。
「おなかすいた...」
「少し待っていて下さい。今、消化の良いものを持ってきます」
 まだ寝ぼけ眼の大神は枕に抱き付きながら彼女に頼んだ。そんな様子に思わず笑ってから、マリアは厨房へ向かった。
「確か、カンナの作ってくれたお粥があったはずなんだけど...」
 コンロの上に土鍋が置かれている。中にはお粥がちゃんと入っていた。マリアはそれを火にかけて暖め始めた。
「もういいかしら?」
 湯気が立ち始めて、マリアは火から下ろした。お椀とれんげ、それに塩と梅干しを持って上に上がる。
「お待たせしました」
 マリアが部屋に戻ってくると、大神はゆるゆると起きあがる。お椀を渡された大神はゆっくりと口を付けた。
「熱いですから気を付けてくださいね」
「...うん。おいしいよ」
 マリアの前で大神は軽く塩味のついたお粥をおいしそうに食べている。そこまで体力が回復した証でもあり、それがマリアには嬉しかった。
「ご馳走様でした」
 綺麗に食べ終わった大神はマリアにお椀を返した。
「はい。じゃあ、これを飲んで下さいね」
「...どうして薬ってのは苦いんだろうね」
 マリアに差し出された粉薬のそれを水で流し込みながら、大神はぼやく。
「アイリスと同じ事を言わないで下さい。あの子も前に風邪をひいた時に同じ事を言って」
「はは。アイリスもかい? やっぱり苦いからね、これは」
 空になったコップを横のテーブルに置いて大神は笑って言った。
「笑い事ではありません。飲ませるの、大変だったんですから」
 笑う大神にマリアはその時の事を思い出して眉をしかめた。
「ごめんごめん。その様子が目に浮かぶようだったから」
 謝っていても、拗ねるアイリスに必死に薬を飲ませようとしているマリアの姿を想像してしまった大神は笑いが零れるのを我慢できなかった。
「...片付けてきますね」
 笑いを止めない大神に呆れて、マリアは食器を持って部屋を出ていった。
「ありがとう、マリア」
 マリアが扉を締める寸前、大神は笑うのを止めてそう呟いた。果たして、それが彼女に届いたのかどうか...マリアは大神にふわっと微笑んでくれた。その笑顔に大神はまた熱が上がったかの様に顔を赤く染めてしまったのだった......

 次の日の昼、大神は全快してベッドから這い出た。
「...やっと熱も下がったし。明日から仕事か...もう少し、寝ていたかったかな」
 着替え終わって身体を軽く動かしていた大神はベッドを少し名残惜しそうに見たが、今日の午前中の事を思い出して考え直した。
「あんなに来られたらなぁ...」
 朝、目を覚ました大神の所に、花組の面々が入れ替わり立ち替わり訪れるのだ。心配してくれるのは嬉しいのだが、流石にこれには困ってしまった。
「でも、マリアに看病してもらえるなんて役得だよな」
 大神は自分の額に添えられたマリアの白い手を思い出して、顔が緩んでしまう。
「何かお礼を考えないとな」
「大神さん、ご飯ですよ」
「お兄ちゃん、行こうよ」
 大神が色々とマリアに似合いそうなものを考えていたら、昼食の準備を終えたさくらとアイリスが迎えに来た。
「はいはい」
 そんなに簡単に浸らせてくれないらしい。大神は苦笑いを浮かべて久々に部屋を出た。
 帝都は今日も平和だ。