二泊三日の避暑旅行。
今年の暑さは尋常ではない。
六月も半ばから何度か八月並みの気温を記録し、七月に入ってからも連日三十度を越す暑さが続いている。
カンナなどは暑くなればなるほど故郷の沖縄を思い出すのかやたらと元気になるが、それに反比例する者もいる。マリアである。
「...大丈夫?」
大神はサロンでへろへろになっているマリアに団扇で風を送っていた。
「すみません。隊長にこんな事をさせてしまって......」
舞台稽古を終えた後、風通しの良いサロンで珍しく弱っていたマリアを見かねた大神は、氷水で冷やしたタオルを渡して彼女を扇いでいるのだ。
「気にしなくてもいいよ。この暑さの中で、元気なのはカンナくらいだからね」
申し訳なさそうなマリアに大神は苦笑を浮かべて首を振った。漸く汗もひいてきてマリアはホッと一息つく。
「気持ちいい?」
そんな彼女の様子に大神も笑顔を見せる。
「はい。隊長のお陰で随分と楽になりました」
「よかった」
そう彼が答えた時。
「あら、二人ともここにいたのね。ちょうどよかった」
「かえでさん」
扉から顔を覗かせたかえでに、大神もマリアも姿勢を正した。
「いいのよ、仕事の話じゃないから。くつろいでくれてて」
二人の態度に苦笑いを見せながら、かえでは一通の封書を取り出した。
「これを二人に渡して欲しいって頼まれたのよ」
差し出された封筒の中身は切符と招待状だった。
「これは?」
かえでの苦笑がため息に変わる。
「どこからか聞いたのね、きっと。あなたたち二人の事」
「...どういう事でしょうか?」
「今朝出かけた先で渡されたのよ。昔からの知り合いなんだけど、最近特にいい性格になったのよね、あの子」
首を傾げる二人にかえでは話し出す。
「は?」
その説明に大神とマリアはますます首を捻る。
「...さっき言ったでしょう? あなたたち二人の事を聞いたって」
かえでは呆れたように再度ため息を零した。
「......まさか」
「そのまさか、だと思うわ。『たまには二人っきりで水入らずというのもいいんじゃありませんか』って言ってたから」
「誰が......」
言いかけて大神の脳裏に心当たりの人物が浮かんだ。
「支配人...ですか?」
「もしくは花小路伯ね」
サロンにいた三人の口から同時にため息が零れ落ちた。
「...まぁ、そういう事なのよ。何でも旅館を新しく作ったから遊びに来てくださいって事みたいなの。このところ大きな事件もないし、行ってきたら? 支配人も反対されなかったし」
「はぁ...どうする? マリア」
「...他の皆になんて説明するんですか?」
「......」
マリアの一言に大神は頭を抱えて考え込んでしまった。
「その事なら心配要らないわ。皆には仕事だって伝えるから」
「いいんですか?」
「ええ。その招待状をくれた子も華撃団の方の関係者なのよ。だからこそ、知ってる事もあるわけ」
「...そういう事でしたら、私は構いませんが」
「そうだね。マリアも涼しいところに行ったら元気になるよ」
「じゃあ、決まりね。あ、お土産よろしく頼むわね」
こうして大神とマリアは思いがけず二泊三日の避暑旅行に出かける事となったのだった...
「ふぅ......」
列車を乗り継いでやってきたのは、山奥にある小さな駅だった。
「えっと...連絡しておいたから迎えが来ているはずなんだけど」
「大神一郎様とマリア・タチバナ様でいらっしゃいますか?」
目の前にやってきた青年は丁寧な口調で大神に話し掛けてきた。
「ええ。そうです」
「私はお二人のお世話をするようにと言われた者で神上と申します。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
彼の示した先には一台の車が止まっていた。
この辺りの色々な説明を聞きながら車に揺られる事、十分。
「へぇ......」
二人の目の前に歴史を感じさせる純和風の平屋建てが現れた。
「それでは、お部屋の方へご案内いたします」
神上は二人の荷物を軽々と持ち上げると、先に立って歩き出した。
「当館の部屋は全て離れとなっておりますので、御用の際は部屋にあります電話でお申し付けくださいませ。受話器を取り上げていただければ係りの者に繋がりますので」
「あの...他のお客は?」
しん、と静かな館内にマリアは神上に聞いてみる。
「まだ正式には開館しておりませんもので...本日のお客様は大神様とタチバナ様を含め六名でございます」
神上はそれだけ言うと荷物を置き、本館へと帰っていった。
「ここはかなり涼しいね」
ガラス戸を開けながら、大神はマリアへと微笑んだ。ここへ着いてからというもの彼女の調子は目に見えて良くなっているようだ。
「ええ。ここの空気は湿気も少ないですし」
「そうだね。今日はよく眠れそうだ」
実は大神も帝都の寝苦しい夜に参っていたのだ。
「しかし、こうなると他の皆に悪い気がしますね」
「そうだね」
帝都で暑さに耐えている仲間達のことを考えると、吹き込んでくる涼しい風に少し罪悪感が起こる。
「実は仕事じゃなかった...なんて言ったら、怒るのはさくらやすみれだけじゃないでしょうね」
お茶を煎れたマリアは、大神の前に湯飲みを差し出しながら言った。
「...マリア、どうしてそんなに意地悪を言うかなぁ。ばれたら、俺...治療ポット行きかも」
湯飲みに口をつけながら大神はその光景を想像したのか、軽く身震いをする。
「ますますかえでさんに頭が上がらなくなりましたね」
「.........」
大神は何も言い返すことが出来なかった。そんな様子にマリアは湯飲みの陰で苦笑を零した。
「とりあえず今日これからどうする?」
しばらくして大神はさっきの事など忘れたようにマリアに笑いかけた。
「そうですね...ここへ来る途中、神上さんが近くに小川があるって言ってましたよね」
「ああ、小さいけど滝もあるって...行ってみるかい?」
「はい」
本館にいた神上に詳しい場所を聞いて、二人は連れ添って出かけた。
「へぇ...」
目的の場所へたどり着いた大神は感嘆の声を零した。確かに大きな滝ではなかったが、清流が流れ落ち水しぶきをあげる様は一種幻想的な光景だった。
「すごいですね...」
マリアも素直な感想を口にしていた。
「マリア」
「はい?」
答えた瞬間、冷たい飛沫がマリアの顔に掛かった。いつの間にか水の中に入っていた大神が彼女に向けて水を飛ばしたのだ。
「大神さん!」
「ははは...気持ちいいよ。マリアもおいで」
大神は怒るマリアに笑いかけ、服が濡れるのも構わずに水の中を逃げ出す。
「もう...服が濡れたら帰れないじゃないですか!」
そう言いながらマリアも裸足になると冷たい流れの中に踏み入れた。
「大丈夫。ちゃんとタオル持ってきてるし、離れに直接帰れば問題ないさ」
「そういう問題じゃありません!」
「...どういう問題?」
大神が足を止めて振り返るその時を狙いすまし、マリアは攻撃を仕掛けた。
「うわっ!」
意表を突かれた大神は、ひっくり返って頭から水を被ってしまう。
「...やったな、マリア! えい!」
「先に仕掛けたのは大神さんです!」
加山などが見たらきっと『二人とも大人げないな?♪』か『らぶらぶだねぇ?♪』と言いそうな水の掛け合いが続き、滝の周辺に笑い声が響いていた。
「ただいまー」
離れに戻ってきた大神は、思う存分遊び回った子供のように満面の笑顔であった。
「...まったく子供じゃないんですから」
「そういうマリアだって結構楽しんでたじゃないか」
「......それはまぁ、そうですが......」
大神の言葉に段々マリアの声が小さくなっていく。そんな様子に大神は小さく吹き出した。
「大神さん!」
「ごめんごめん。でも...マリアが元気になってよかった」
大神は彼女を真っ直ぐに見つめて微笑みを浮かべた。
後日。花組の面々は戻ってきたマリアの回復ぶりを喜んだ。が、二人の出かけていた『旅行』が『仕事』だったとはとても信じられず、大神はしばらく針の筵の上での生活を余儀なくされたそうである。